【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第2節 再びボロアパート [4]




「逃げられたって、どういう事だよ? 説明しろ」
「言葉の通りだよ」
 怒気を含んだ聡の声にも、瑠駆真は淡々と返すだけ。
「ワケがわかんねぇよ。お前、この部屋で美鶴と同居してんだろう?」
「その予定だったというだけだよ」
「予定?」
 瑠駆真が着替えをバッグに詰めて美鶴の部屋を訪ねたのは、日付が変わって数時間という時間帯だった。明け方と言った方が正しいかもしれない。始発の電車が待てなくて、タクシーを使った。その時間を選んだのは、母の詩織が帰宅している可能性が高かったからだ。母親のいない時間を狙って押しかけたとは思われたくはなかった。悪い事をしているという自覚が無いので、母親の居ぬ間に勝手に行動してしまうつもりだなどとは思われたくはなかったのだ。逆に美鶴はまだ眠っているだろうとは思ったが、思い立ったらいてもたってもいられなかった、というのも事実だ。
 幸か不幸か、詩織は帰宅していた。常識外れな時間の訪問にも関わらず、けたたましい声をあげて喜んだ。
「朝からイケメンの顔が拝めるなんて、今日は大安ね。アタシ、これからシャワー浴びるんだけど、よかったら一緒にどう?」
 冗談とも思えない詩織からの誘いを苦笑で断り、唖然としたままリビングの中央で立ち尽くす美鶴を振り返った。
「僕、今日からここに住む事にしたよ」
「は?」
 それ以上の言葉は出ない。
 ここに住む? ここ? ココ?
 口を半開きにしたまま絶句する。瑠駆真は静かに荷物を床に下ろす。
「ここに?」
「そう、ここに」
「どうして?」
「それが一番安全だと思ったから」
 言いながら視線を上げる。荷物を下ろすために少し曲げた腰をゆっくりと伸ばす。
 美鶴の後ろのカーテンが、夜明けが近い事を教えてくれている。
「繁華街へなんて、もう行かせないよ」
「ひょっとしてその為に?」
 春休みの二週間を思い出す。美鶴を監視するために瑠駆真はこの部屋に居座った。
「今度は、春休みの間だけだなんて、そんな期間の設定はしない」
 言って首を少し傾げる。
「期間の設定はしないって。じゃあ」
「君が霞流を諦めるまで。それから」
 顎をあげ、背筋を伸ばす。
「僕と一緒にラテフィルへ来てくれる事を、承知してくれるまで」
「じょ、冗談っ」
「冗談に聞こえた?」
 聞こえない。でもそうだと思いたい。
 冗談であって欲しい。
 瑠駆真と一緒に住む? ココで? しかも、このぶんだと、きっと毎日説得されるのだ。霞流は諦めろ。僕と一緒にラテフィルへ来い、と。
「さ、聡は?」
 唖然としたまま呟くように口を開く。
「聡はこの事を」
「まだ知らない」
「まだ?」
「今日学校で伝える」
 伝えたくはないが、いずれバレるに違いない。美鶴は嘘をつくのが下手だから。バレた時に、また抜け駆け呼ばわりされるのも癪だ。だったらこっちから告げておいた方がいい。
「僕から伝えるよ。彼の事だから、俺も住み込むだなんて言って乗り込んでくるかもね」
「そんな」
 言いながら、その方がまだマシかもと思ったりもする。
 瑠駆真と二人っきりでいるよりかは聡と三人の方がまだマシだ。変な手出しをされる危険が格段に減る。
 変な手出し。
 カッと美鶴の全身が火照(ほて)る。自分を抱きしめる感触が甦る。それは瑠駆真なのか、それとも聡なのか。
「二人が、この部屋に」
 菓子を持ち込みギャーギャーと賑やかだった春休み。霞流との関係を説明しろだのとしつこく問い詰められ、うんざりだった。だが、どちらかに迫られるという危険はなかった。それは、瑠駆真なり聡なりと二人っきりになる時間がほとんどなかったからだ。
 聡は親と同居しているので四六時中この部屋に居座る事はできなかったが、母の詩織が家に居る時間帯を見計らっては家へ戻っていた。税理士事務所というのは、三月や四月は忙しいらしい。義父も母も夜遅くまで事務所に篭っていた。家政婦が用意した食事を聡と緩はそれぞれ都合の良い時間に摂っていたから、勉強しがてら部屋で食べるからおにぎりでも用意してくれと言えば、そのように準備してくれた。家政婦の方としてもその方がありがたいらしく、文句も言わずに従ってくれた。聡はそれを持って家を抜け出しては、美鶴の部屋に戻ってきた。
 でも今回は?
 もし聡が瑠駆真との同居を知ってこの部屋に乗り込んできたとしても、春休みのような事はできない。
 学校が終わって、いつものように駅舎へ行く。暗くなれば駅舎を閉め、美鶴はこの部屋へと帰ってくる。いつもなら別れる瑠駆真が、これからはこの部屋の中にまで付いてくる事になる。その時聡は?
 聡はきっと、家へ帰らなければならないだろう。夕飯に顔を出さないワケにはいかない。一日や二日ぐらいならなんとか言い訳もできるだろうが、何日も続ける事はできないはずだ。
 夕飯を済ませ、家族の目を盗んでこの部屋に来たとしても、それまでの間は、美鶴はこの部屋で瑠駆真と二人で過ごす事になる。
 瑠駆真と、二人で。
 なぜだか唇が熱を帯びる。まるで激辛スナックを擦りつけられたような腫れぼったさ。思わず舌で舐める。
 いや、それなら聡がこちらに来れるまでの間を駅舎で過ごせばいい。駅舎を何時に閉めるかは、今はほとんど私の都合で決められる状態だし。
 でも、聡がこちらに来れるのが深夜になったりしたら? そうしたら駅舎からマンションまでの電車が無くなってしまって、私は帰れない。そしたら私、瑠駆真と駅舎で二人っきり?
 いやいや、それはない。だってそれなら聡もこのマンションに来る(すべ)が無くなってしまうワケで、聡がそのような時間までモタモタしているとは思えないし。
 なぜ?
 だってきっと、瑠駆真と私を二人っきりになんてさせたくはないだろうから、だからきっと聡は。
 カッと頬が熱くなる。
 やだ、私、何考えてるんだろう? だいたい、聡が瑠駆真との同居に横入(よこはい)りしてくれるという確証は無いわけであって。
 でも、そうすると私は瑠駆真と。
 混乱する頭を思わず両手で抱える。そんな美鶴に、瑠駆真は優しく口元を緩める。
「大丈夫だよ。君に手は出さない。この間もそうだっただろう?」
 手は出さない。確かにそう言った。だが、窓際までは追い込まれた。

「君を、絶対にラテフィルへ連れて行く」

 甘い声でそう囁いた。
 瑠駆真と同居すれば、あのような事が毎日続く。
 両手で頬を包む。
 これって、どういう事態なワケ?
 何も考えられない美鶴の背後から、弾むような声。
「いいじゃない。アタシは賛成」
 振り返ると、バスタオル一枚をグルッと身に巻いた女性の姿。
「セキュリティー完備の高級マンションとはいえ、女の二人暮らしは危険だモンねぇ。瑠駆真くんが居てくれるンなら、アタシ心強いっ!」
「お前は黙ってろっ! っつーか、とっととシャワー浴びてこいっ!」
「あら怖い。で? 瑠駆真くん、本当に一緒に入らないの?」
「蹴り飛ばすぞっ」
 本当に足を振り上げそうな美鶴に肩を竦め、ヒョコヒョコと浴室へ姿を消す。
 そんな二人のやりとりに、瑠駆真がクスッと声を漏らした。
「楽しい生活になりそうだね」
 朝日がカーテンを透かしている。正面から浴びる瑠駆真の姿は清々(すがすが)しくて、これは夢なのではないかと思ってしまいそう。







あなたが現在お読みになっているのは、第19章【朝靄の欠片】第2節【再びボロアパート】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)